すごもりシネマ

お家(時々、映画館)で観てきた映画の個人的な感想

No.001『湯を沸かすほどの熱い愛』☆ネタバレ無

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(C)2016「湯を沸かすほどの熱い愛」製作委員会


10/29(土)公開 『湯を沸かすほどの熱い愛』本予告篇

波乱万丈な人生を生きる一人の女性“双葉”が余命宣告を受けてから、生きている間にするべきことを成し遂げていく話し。

血縁関係を超えた『家族愛』がテーマ。だと思う。

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実際、こんなに薄幸な人でバイタリティーにあふれた人いるのか?

「映画なのだから、こんな人物などいるわけはない。」

って、思う人もいるでしょうが最近、私は身近にこの主人公のような波乱万丈の人生を今、生きている人と知り合った。

2年前にもこの人にいったい何が起きたの?って思うような人とも知り合うことがあった。

事実は映画よりも奇なり…というところ。

むしろ、映画とかの方が緩衝材が合間に施され、リアルさはもちろん欠けるし「笑い」「救い」があるから安心して観ていられる。

現在進行形で今の宿命と向き合い生きている人が身近にいると、自分の甘さが浮き彫りにされて何かエールを…なんて、自分で自分をせせら笑ってしまう。

っていうか、そういう人は本当にタフでいられるのだろうか?愛情深く生きれるのだろうか?現実には多少でも捻くれたり、薄情になったり、人や世間をさげすんだりするものだと思う。

双葉が何故、タフで愛情深い人として成長できたのか?私はそのバックボーンが知りたい。と、思った。

主人公の双葉は末期がんに侵されてしまうわけですが、私の母も2013年に癌を患って他界をした。末期がん患者の形相は見事に再現がされていて、私は母の顔を思い出さずにはいられなかった…。

2012年5月に卵巣がんが見つかって手術…抗がん剤治療を半年続け経過観察。2013年6月に癌の転移が発見…余命長くても2~3ヶ月と言われた。

 2013年7月、母を看取るまでの記録

私はその1〜3ヶ月で歩けなくなり食事も摂れなくなるというのは母の『余命』と、捉えた。
病院は治療し治す目的でないと入院ができない。母は治る見込みがないので入院はできないのだ。
そこでホスピスを考えた。しかし、ホスピスに入れるにしても医師の紹介状がいるようで、そんなものを準備しているほど物理的にも時間的にも余裕はなかった。
私は母を家で介護看病することを決め、介護認定の手続きを始め、自宅の近くに部屋を探した。幸いにも自宅から歩いて1〜2分のところにあるマンションに、手頃な広さと家賃の部屋を見つけ即効、実の弟に借りる手配をさせた。

7月上旬新しい部屋が決まったと同時に介護認定の面談も終わり、あとは引越しをし介護認定が降りるのを待つのみとなった。
ただ、家で母を看取るにはどうしたらよいか?と、考えたとき「在宅でホスピスケアができないか?」という発想が浮かんだ。
自分で色々と調べたり、高齢者支援室へ相談したところ区内に自宅で最期を迎えたい人、またはその家族を支援する医療法人をみつけることができました。

7月に入ると母は自分では歩けず、食事が摂れなくなっていたので、介助で寝室から座敷へ移動させ、介護食などを購入し食べさせはじめていました。7月中旬になる頃、母は自分では起き上がることもできないほどになっていて、おトイレにも行けなくなっていました。

猛暑が続いていた7月12日の朝、おむつの取替えと着替えなどの世話をしようと、母の体を起こすと体がいつもより熱くなっていて、私の呼びかけにも反応がなかった。慌てて救急車を呼んで救急搬送をした。脱水症状と衰弱があって入院をしました。
点滴で脱水症状も衰弱もなんとか回復し7月20日に退院という運びになりましたが、母の様態が良くなったわけではなく、母は言葉を発せなくなっていました。帰ってきた場所は母を介護するために借りた部屋。

7月21日(日)

母の妹たちが長野から見舞いに来てくれました。誰が来てくれたのか、何を話しているのかは分かってはいたようだけど、言葉は発せませんでした。

7月22日(月)朝

前日に妹達と会えたことに安堵をしたのか?朝の呼びかけに母は目を開けなかった。ガーガーというイビキのような呼吸をして眠ったままな状態でした。翌日の23日も目を開けることはありませんでした。

7月24日(水)朝の検温で39.0°

『在宅ホスピス&介護』を一貫で見てくれるところへ、外来問診に行き即日、医師の診断をしてもらいました。医師は母の病気の進行が想像以上に進んでいることに驚いていました。その場の診察では肺炎を併発していると言いました。そして、「このまま呼吸が静かになって、眠るように安らかに逝かれると思います。」と、私に告げました。
24日の午後ヘルパーさんが早速来てくれて、私では手薄だった体のケアを十分にしてもらえた。特に口の中はなかなか上手にできなかったので、ヘルパーさんのおかげでさっぱり綺麗にしてもらえた。
ヘルパーさんの「お体のケアがきちんとされていて驚きました。よく頑張りましたね。」と言ってくださったことが、私や弟を救ってくれました。

7月25日(木)朝

もうそんなに長くはないだろうと感じていた私。母の口に小さな氷を含ませてあげ仕事に出かけた。仕事をしている間も電話がなるのでは?と、気が気じゃなかったが「私が帰るまで待っていてくれる!」という根拠のない自信があった。とにかく、できるだけ仕事を片付けておかないと!と必死にこなした。


何事もなく帰宅する途中、母ととても仲の良かった友人と会った。私は「今日の夜、時間があったら母に会いに来ませんか?」とお誘いした。その方は「今から行ってもいい?」と言ってくれたので連れて帰った。
お見舞いにも来てくれた友人で、部屋にいる声がけにも反応しない母の様子を見て号泣した。お見舞いに来てくれたときは少し会話ができたので、こんなに急変しているとは想像ができなかったのだ。


この日は午前と午後ヘルパーさんが来てくれて、午後は体と口腔のケアをしてくれた。
夜、私が一旦、自宅へ帰ると電話が鳴った。同じく近所の母の知人からだった。

「お母さんにお会いしたいのですが…」という電話でした。

私は「私はもう今夜は自宅へ帰ってきてますが、弟と息子たちがいるのでもしよければ、明日と言わず今すぐに行ってあげてくれませんか?」と話した。その知人は他の親しくしていた人も一緒に連れて会いに行ってくれた。
その人たちが帰宅をし旦那と息子が自宅へ帰ってきた。私が寝床に入って入眠した時、枕元の携帯が鳴った。弟からでした。

7月25日(木)23:00「母さんの呼吸が止まったみたい」

在宅ホスピス訪問看護師さんに連絡。
家族で母の部屋に行く。首周りにまだぬくもりが残っていましたが、母は静かに目を閉じて呼吸もしていませんでした。

7月26日(金)00:15 訪問看護師さん到着

00:22に死亡を確認してもらう。
MRIの結果から約1ヶ月でした。

私は母のことを日記で記すとき、マイナスなことしか書かなかった。あるときにはもし、母が介護がなければ生きられなくなった時に見てあげる気持ちがない。と、すら書いたこともある。できれば施設へ入れてしまいたいと思っていたほどです。
その私が何故、1ヶ月という短い期間ではあったけど母を看てあげることができたのだろう?そうなったら弟に全て任せりゃいいと思っていた私が・・・不思議です。


7月に入って1度だけ、母が私を認識しない時があった。

「今日、病院の日だったわ・・・ねぇ、(私の名前)に聞いてみて」と私に言ったことがあった。

「え?(私の名前)は私だよ」と、言うと

「えーやだぁ、違うじゃない!」と、言うと母の表情が暗くなった事があった。私はわかってはいてもなんとなくショックでした。
それから毎日、「私が誰かわかる?」という確認をしていた。最初は「わかるわよぉ!(私の名前)」と言っていて、そのうち言葉がでなくなり、わかるという表情で頷くようになる・・・そんなふうでした。


思えば介護を始めた時はどんどん動かなくなる母と、言うことはわかっているのに協力的でない態度に苛立ちがあって、私の顔が疲れと険しさが出ていて認識できないほどになっていたのかも?と思いました。それからどうせ介護するなら、なるべく明るく優しく対処しようと決めて接しました。


脳に出来た腫瘍がよほど痛かったのか、顔が能面のように険しい表情になり始めていたけど、仕事から帰り「お母さん、ただいま」というと穏やかな顔になり、食べ物やゼリーを与えようとしてもなかなか口を開けずに、飲み込むことも困難になってきても、私が「アーン」とすればうっすら口を開いて、もちろん時間はかかったけど器に一杯のゼリーを完食してくれました。


新しい部屋での介護、2日目の夜、母の意識がまだあった最後の日も穏やかな顔で、私が口に運ぶゼリーを食べましたが、母は動く右手で私に手を合わせました。


母に対してはいろんな感情がありましたが、その仕草で私はそれまでの全てを忘れました。許せたわけではないと思う。そこまで出来た人間ではないし(笑)でも、もうなんのわだかまりもなく、亡くなってお骨になり遺影を見ると寂しさすらこみ上げます。


25日の深夜に亡くなって、30日が通夜、31日が告別式と時間が空いてしまったのだけど、その間に交友関係の多かった母にたくさんの人が弔問に来ていただけた。
その人たちと最後のお別れできて、母も母の親しかった人達も悔いはないかと思う。

私は鬼や悪魔の子ではなくて「人の子」だったんだなぁと、しみじみと思うことができました。